伊勢内宮前 おかげ横丁

五十鈴塾塾長 神崎宣武 さん

 

江戸の元禄と戦後の昭和元禄は、歴史を通じて、特別な時代。生活の隅々にまで潤いを与え、庶民は娯楽を楽しんだ、その一つが旅です。

 

誰しも旅に出られるのは、江戸時代の元禄から後と昭和の高度成長期の後。歩く伊勢参宮と空の海外旅行、実際の経済力は昔の方がダイナミックです。

お題は、伊勢にたくさんの人が押し寄せてくる「おかげ参り」です。信仰の旅として伊勢参りが全国的に広がるのは江戸時代のこと。この江戸時代について、学校教育の中では年貢に困っている窮屈な時代だったと、暗いイメージでつい覚えてしまいがちですが、そうでもないのです。17世紀に江戸幕府が成立し、80年経って「元禄(1688年〜1704年)」という時代がやってきます。元禄は江戸時代を考える中でとても大事ですが、「昭和元禄」という言葉があるのをご存知でしょうか。
この「昭和」が示す時代は後半です。39年あたりからで、つまり高度経済成長期。昭和の終戦後は国土復興が第一の命題で、住む家や道路、水道などハード事業に国が全力を挙げて取り組まなくてはいけない時代でした。しかし戦後20年が経過し、東京オリンピック前には「もはや戦後ではない」という風潮となり、日本は高度成長の道を一直線に進んでおりました。全国一斉に生活水準が確保され、景気が上向きになり、経済が安定し、蓄財ができるようになったのが昭和の後半で、これが元禄と重なるというのです。
江戸時代最初の80年間、幕藩体制は国土を整備するためハード面に投じます。参勤交代も始まりますが、一年ごとに江戸へ出仕する大名行列のためには、街道や宿場が確実に整わないと成り立たず、その間、労働の人工と米がいります。米は7割が年貢、自分たちに3割しか残らず、庶民は食べたり食べなかったり、大根飯でつないだ汲々とした生活でした。それもハード面が整った、元禄を境に変わります。年貢の徴収率が減り、社会が安定し、街道が整備され、家内工業をして物品も流通、経済が大きく変化します。それが昭和の高度成長期と同じだというのです。歴史を通じて、この2つは特別な時代。生活の隅々にまで潤いを与え、庶民も小銭が貯まったゆとりの中で娯楽を楽しむ、その一つが旅です。誰しも旅に出られるようになるのは、元禄から後の江戸時代、それから昭和の高度成長期の後です。それが伊勢参宮と海外旅行で、歩く旅と空の旅になりますが、実際の経済力は昔の方がはるかにダイナミックです。お伊勢参りは、江戸からで片道10数日、伊勢に3日ほどいて、奈良や京都、大阪をまわり、中山道で帰るといったようなルートで往復の消費日数は約50日。海外旅行は平均して7泊8日。飛行機代がいりますが、食べたり泊まったり、50日と8日では掛かる経費が違います。

むやみに物見遊山はいけないが、お寺やお宮に公のことを願うならよろしいという、建て前と本音

 日本の中で、伊勢参宮は特別に人数を増やしますが、そこに武家はほとんどいません。江戸時代の旅では、武士や大きな商人が所持するのは通行手形、一般庶民は往来手形です。その往来手形は寺が出しましたので、別名「寺証文」とも呼ばれます。元禄には檀那寺に属する檀家制度も整い、一村一鎮守の氏神制度で氏子帳ができ、それが一軒ずつの戸籍になりました。社会が安定し、国づくりが始まったのです。今の時代、神社は祭りに行く、寺は葬式ぐらいの関わりですが、この時代は極めて幕藩体制、つまり行政に機能しました。寺証文は関所を通るときや暮れ四つ、今で言う午後8時の「宿改め」という旅人を管理する制度にも必要でした。この宿改めは抜き打ちで行なわれ、一人でも外出していると主人の責任になるため、旅人を外で飲み食いさせるわけにはいかず、宿で食事を用意するようになったのです。日本の一泊二食のスタイルは、この時代の名残です。
しかし寺証文が一番必要になってくるのは、道中で不慮の事故にあったときです。東海道筋には亡くなった人を祀る無縁仏が、かなりあります。ピラミット状に石を置いた集合墓です。どういうわけか桑名からの伊勢街道には、日永の宿場以外にほとんどありません。何十日も歩く旅ですから、事故の確立がたいへん高い。そういうときに寺証文が役に立ちます。宗派を問わず、一番近いところの寺で葬るのがその当時の規則で、これを化経といいます。その訃報の知らせを、寺の前を通った旅人の中から親元に届けてもらいます。親はまたその方面へ行く人に埋葬料とお礼を言付け、寺は墓を用意します。そのため街道沿いの寺には無縁仏が多く、そういう機能があるから庶民は旅に出ることができたのです。
ところがそうはいっても、銘々勝手に出るのは許されません。江戸時代には「勝手に村を離れてはいけない」など、いろんなお達しが出ますが、このお達し令は罰則を伴わず、「但し書き」があるのです。「むやみに物見遊山に出ることは相成らぬ。但し、五穀豊饒を祈願、また亡くなった霊を弔うために巡礼をする者は、その限りにあらず」と。つまり観光旅行は駄目、ただし寺、宮ならよろしいという例外が出ました。ヨーロッパのような禁欲的な巡礼ではなく、うまいものを食べて、酒も飲んで、伊勢へ参ったら夜は古市で遊んでという旅。「伊勢参り、大神宮へもちょっと寄り」という川柳もあるぐらいです。つまり建前と本音。これは世界でも大きな特徴で、日本の文化のキーワードです。

17世紀で成立していた日本の御師、間違いなく伊勢は旅行業発祥の地。江戸時代の伊勢は、旅行斡旋業の城下町だったのです。

 そうなると、どこのお寺、お宮へ行くかという話ですが、伊勢神宮は日本の総祖先という認識ができていて、地理的に日本のほぼ中央にあります。また農閑期である正月前後でも、伊勢は緑たおやかな地です。照葉樹林で一年中青い。その代表が榊で、葉っぱが枯れないことは命の象徴であり、神さまに最も相応しい木として神事に使われます。江戸時代の道中記には、伊勢で目の保養をすると書かれていますが、伊勢は求心力があり、天治療法的にいい場所で、精神が癒されるのです。心理学者の分析によると、歴史を通じて災害が少ないところでは、精神的に癒される効果があると言います。癒しというのは、地形、植生、風向きなどが関係しているのです。
ところが個々にはお伊勢参りに行けないので、伊勢講という組織を作ります。これは江戸中期に発達しました。何軒かでいくらかの積み立てをして旅費を出し、代表者が代参します。江戸から伊勢へ来るのに一人当たり15~20両です。一年10両あれば、一家5人が暮らせる時代です。御師の館に泊まって大名気分を味わい、古市でどんちゃん騒ぎをしても、その分のお金が出たのです。20年我慢すれば順番が来て、一生に一度の伊勢参りができました。そんなとき、伊勢の御師が案内し、道中の手配、伊勢での宿泊、代理の祈祷、土産の手配までを行います。いわゆる総合旅行業。御師は、元は神宮の禰宜職ですが、内宮に100軒、外宮には600軒ほどあり、全国の檀家を廻ってお札や伊勢暦などを配って参宮の勧誘をしました。地方をまわることで縄張りを持つ役目もあり、最終的には講のお金も管理するようになります。世界で、近代ツーリズムの祖として知られるのはトーマス・クックですが、19世紀に鉄道ができてからの話です。日本の御師は既に17世紀で成立していますから、間違いなく伊勢が旅行業発祥の地。江戸時代の伊勢は、旅行斡旋業の城下町だったのです。
そうやって正規の人は講に参加し、今でいう300万~400万円の積立金を持って、往来手形で伊勢参宮ができたのです。江戸時代の人口をわかりやすく2000万人で換算すると、20人に一人、100万人がお伊勢参りに来ています。今にすると1500万人が海外に出て、ビジネス出張を除く観光だけでは900万人ぐらい。15人に一人という概算ですが、消費力がぜんぜん違います。

行けない人にもどうすればお伊勢参りに行かせられるかを、社会全体で考えた。それがおかげ参りとなっています。

 伊勢はいいぞという噂が立ち、よかったぞという情報が入ってきます。そうなってくると子どもだって行きたいのです。そこで出てくるのが抜け参りです。親や主人の許しを受けずに家を抜け出し「おかげでさ、するりとな、ぬけたとさ」と、黙って行くのです。
本居宣長の随筆『玉勝間』によれば、江戸中期の宝永2年(1705)に、街道を通る旅人は50日間で362万人に達します。そのとき京の洛中だけで、伊勢に来たのが、1~5歳が親付きで1105人、6~16歳で18536人、16歳以上が31912人、合計51563人。うち男性30345人、女性21218人。今の時代と同じですが、社会が安定すると男女ともに旅に出ます。これが社会がよくない窮屈な時代となると、あってはならぬことですが、男は兵隊に出て、女は家に閉じこもるのです。動物学者に言わせると、種の保存を優先し、子孫を残すために女性が残るようです。
抜け参りでは20歳前の子どもたちまでもが、旅に出ました。どのように出たのか、いくつかのパターンがありますが、村の後見人のところに頼みに行って、最低の旅費を分けてもらうこともありました。旅から帰ったら後見人にあいさつに行き、親が迎えに行って立て替え分を精算します。江戸中期の宝永年間、京都北部から20人、女性ばかりが抜け参りをしました。その記録によると、ある人が抜け参りのために自分も働いて後見人にならないといけない、体が悪くなって死期を迎えたため、村の娘たちに遣わせてやりたいという遺言がありました。福祉制度とまではいえませんが、行けない人にもどうやっていかせるかを社会全体で考えたのです。それがおかげ参りとなっています。

街道筋の人々は、おかげ参りの群衆に対して要所要所に施行場を設けた。施行がボランティア活動として広がっていったのです。

人口の8分の1が伊勢を訪ねたおかげ参り。こんな大掛かりなことに、仕掛人がいないわけがない。しかし誰が仕掛けたのか分かっていません。
おかげ参りは、慶安3年(1651)、元禄の少し前からはじまっていますが、最初に御触書が出ています。「見目形麗しくとも遊山好きの女房は即刻離縁」。姿形が美しくてもおかげ参りに興じる女性は即刻に離縁するという内容です。御触書が出されるほど、その風潮があり、女性が移動していたという事実で、伊勢商人の系統である三井家では、「おかげ参りに興じることは相成らん」という家訓があるほどです。講ができる前のおかげ参りはいろいろ物議を醸した。
慶安3年(1650)・宝永2年(1705)・明和8年(1771)・文政13年(1830)の各年が、おかげ参りの代表的な年で、だいたい60年周期で流行ります。宝永2年には362万人で、人口の8分の1が参った異常な時代。幕末の文政期(1818〜1831)にはお札が降ってきて、禍が出ると行けないからこぞって伊勢参りをする。それでもいけない人はどうしたか。犬を行かせたのです。こんな大掛かりなことに仕掛人がいないわけがありません。
自然発生的なものではないが、このおかげ参りを誰が仕掛けたのかは分かっていません。たぶん御師だろうと思いますが、その記録がありません。文政期のおかげ参りは江戸など関東地方からですが、ほとんどが京都、紀州、近江など近畿地方からです。京から来る人はありがたみがあるが、紀州からのおかげ参りは最も行儀が悪いと書かかれた記録もあります。 「お足を持たずにおかげ参り」というぐらいですから、道中ではもらうのが当たり前。毎日毎日、沿道の人家では炊き出しをし、お茶の接待をしないといけない。60年に一度でもたまったもんじゃありません。大政奉還前、慶応年間(1865〜1868)には四国(阿波)から来ています。「ええじゃないか、ええじゃないか」という掛け声で、おかげ参りします。このときは特に奈良の沿道の人たちが困っています。草蛙を履いたものが土足で家に入ってくる、にぎりめしを出さざるを得ない。幕末のおかげ参りは迷惑であったという記録もあります。
伊勢の人はおかげ参りをどう受け入れたのか。伊勢の御師は抜け参宮を正規に迎えたわけでなく、代参で来る人だけ。おかげ参りの人が泊まることはありません。確かめるのは難しいですが、おおむね野宿です。青山高原辺りでは、四軒の大きい家を開放し、自由に寝泊まりをさせたという記録があり、野風呂を作ってお湯を沸かして施行したそうです。道中で施業をするのが社会の制度となり、ボランティア活動として各地に広がっていき、村人の積極的な後押しを得て、おかげ参りは成立しました。
「名所図会」に、宇治橋の上から銭を投げている図絵がありますが、橋の下で銭を網で受けているのは、伊勢の人で、おかげ参りの人ではありません。お金を投げている人は、江戸から来た成り上がり商人。慶応のおかげ参りで、江戸からやってくる人たちは、為替屋を通して銭何貫と伊勢へと届けています。そして宇治橋手前の為替屋で小銭に替えています。これはお金をはたくことで、みんなに認めてもらうという、士農工商の中でのステータスがあったのではないかと思います 。

日本の信仰で神と仏は一緒。「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と伊勢神宮へ参って、朝熊山の寺にも参詣するのが習わしでした。

 明治政府は文明開化を急速に急ぎ、過剰に反応し、政治の体制を急激に変えようとしました。昭和元禄のときように、自然と復興期から安定期へと流れるのは分かりますが、急に政治の体制を替えたのは、どうしても無理があった。その一つが神仏判然令です。明治維新から大正、昭和前半の戦前は、信仰の上では異常な時代。維新政府は神仏混淆を禁止し、神道と仏教は別と、神社と寺院を分離するように命じる神仏判然令を出しました。
世界では理解されませんが、日本の信仰では、家に神棚があって仏壇もあり、神仏は一緒です。「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と伊勢神宮へお参りする人は朝熊山の寺にも参詣するのが習わしでした。
しかし開国をする人たちは、充分な検討をしないまま、ヨーロッパには国の宗教がある、近代国家のためには国の宗教を決めなければいけないと、神仏を分離し、神様事を神社神道とし、国の宗教としました。それまで神社神道という言葉なんてありませんでした。神道の中には神社を持たないものもあったのです。
そして神社神道の本山が伊勢。かつて宇治橋を渡って一の鳥居までは御師の館がありましたが、そんな中に商売をする館を置くわけにはいかない。明治政府は大整備し、商売の勝ったものは一掃します。御師を追っ払って、庭園(神苑)をつくりました。おかげ横丁の裏手にも寺はたくさんあったのです。廃仏毀釈です。また田舎の小さな社をまとめなさい、大きいお宮にまとめなさいと神社合祀通達が出ます。三重県下は伊勢神宮があるため過剰に反応しましたが、神仏判然令にも罰則がないため、出雲や宇佐では四拍手という参拝作法も残っています。
国の体制としては皇国史観、軍国主義、神社神道。これらの思想が近代国家の象徴で、この不幸が戦争に繋がります。戦争を起こしたのは神でも神社でもありませんが、戦後の文化人は極端に神社を嫌います。「こうゆう神様事をしているから、日本は戦争に負けた」と、戦後の左翼的な学者に戦争責任を問われますが、自然の空気を吸収することができない不幸な人たちだなと思います。明治から戦前の時代を除けば、神信仰を嫌ってきているとは思いません。江戸時代のおかげ参りの人は、純粋に旅ができるなら、また伊勢が便利なら伊勢へ行く、と単純な思いでやってきていました。
今は若い人のお参りが増えています。戦前までのアレルギーがない若い人にこそ、右でもない左でもない中庸な歴史を知ってもらう必要があるのではないかと思います。朝や夕方の空気が澄んでいる時間にお参りしてもらい、本質的なことを次の世代へ伝えていきましょう。


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