伊勢内宮前 おかげ横丁

おかげ講習⑤ 文筆家 千種清美さん

 

神宮の檜を育てる森が育ってきたおかげで、この森を水源とする五十鈴川にきれいな水が流れるようになり、
森が健康になってきたことで、流域もいろいろと潤ってきたのだと思います。それが宇治の町です。

【1】宇治の町はどう発達してきたのでしょうか。日本では川の流域、もしくは海のそばに人が住み、集落も商売も発展しました。川は魚介類が採れる漁場であり、稲作をするために大切な水もあります。

 この土地の季節を楽しむ「暮らしのぞき箱」が300号となりました。「暮らしのぞき箱」をベースに『お伊勢さん 鳥居前おかげ縁起』を書かせていただきました。伊勢は神社の鳥居の前で参宮者をもてなす「鳥居前町」です。今日は神社を中心とする町、宇治の自然、歴史、文化についてのお話しです。

 みなさんは神社のことについて、どれくらいご存知でしょうか。神社のご祭神は代表的に、八幡神、伊勢、天神、お稲荷さんなどいろいろあり、神社本庁が管轄する神社は全国に約8万社あります。コンビニより多いです。その分布を見ますと、八幡神7,817社、伊勢4,425社、天神3,953社、稲荷2,970社となっており、日本は八幡信仰の神社が多く、お伊勢さんにあたる天照大御神を主祭神としている神明社(しんめいしゃ)、天祖神社(てんそじんじゃ)などが2番目です。

 47都道府県別の神社の数は、全国的にみると三重と和歌山、大阪が少ないです。東京1,415社、京都1,595社に対して、三重は825社足らずあります。伊勢は神宮があるから多いと思われがちですが、実際はとても少ないです。時代の中で、今まで一緒に祀っていた神と仏を分けて「神仏分離(しんぶつぶんり)」をし、なおかつ寺を壊す「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」、加えて、「神社合祀(ごうし)」が始まります。明治時代にたくさんあった神社をまとめて整理(合祀)しました。その匙加減は、全て県知事に任されていたのです。三重や和歌山は合祀がとても進んだので神社が少ないのですね。

 昔、伊勢は宇治と山田でした。その後、昭和30年に宇治山田市から伊勢市になります。まず、宇治の町がどう発達してきたのかについてお話します。昔から人の住むところは、川の流域、もしくは海のそば。川や海というのは今でいう道路にあたる交通路ですから、集落も商売も発展しました。また魚介類が豊富に採れる漁場でもあり、そして稲作をするために非常に大切な水もある。地形でいうと、そういう場所から集落は発達してきたといわれています。

 宇治の周辺というと、天照大御神がご鎮座した土地です。神話(日本書紀)では今から2,000年前のこと、史実としては諸説あり学術的に決着がついていませんが、3世紀末~4世紀初めごろといわれています。おそらく最初、この町は神官が住んだということは想像ができます。今では神宮司庁に勤める神職がいますが、昔は代々神職の「荒木田氏」が神宮にお勤めになっていました。この人たち元は玉城にいましたが、内宮に近い方が良いうことで、玉城から宇治に移り住んできたのです。玉城に神宮の摂社・末社が多いのは、そういうことも理由です。

 

【2】参宮者をもてなす鳥居前町。それぞれ町の特色を残しながら、今の伊勢があります。

 豊臣秀吉の時代に租税のため太閤検地を実施しました。しかし、宮川より以東は大神宮の領地ということで、検地されなかったのです。神領ということで、無税。ただ納税の代わりとして、御白石行事やお木曳については、神領の方々が延々と行ってきました。

 県都の津は、藤堂藩で城があります。でも伊勢には城がありません。トップがいなくて、どうやって統治してきたかというと、会合(話し合い)です。殿様がいなくても、自治組織が統治をしてきた。それが宇治会合(宇治年寄り)。その会合をする場所を「会所」と言います。会所があった「海老丸」の横の通りは「会所世古」。伊勢で思うのは〝民〟の力って強いなということです。そのようなまちの雰囲気をよく感じます。

 山田の町の宮川は、かつて氾濫を繰り返す暴れ川でした。外宮に土宮(つちのみや)というお宮さんがありますが、土宮は宮川の氾濫から山田の土地を守るよう、特別に別宮に昇格した神社です。他は南向きですが、土宮は宮川を守る様に他とは違う方向を向いています。神社の向きからもルーツが分かります。

 二見浦は浜参宮の場所です。昔は神職が禊をし、その後、一般の方も参宮前で禊をするようになったんです。二見には茶屋という地名が残っていますが、着替えたり、食事を用意したりするところで、それが時を経て旅館になっていきました。調べると江戸時代にも二見から伊勢という流れがありました。

 次に勢田川沿いに発達した町が河崎。蔵がいっぱい建っていますが、そこにお伊勢参りの人達のための物資が入っていました。昔から河崎は伊勢の台所。台所と書いて「だいどこ」と読みます。

 宇治があり、山田があり、二見があり、河崎があり、それぞれ性格は違いますが、鳥居前町としての特色を残しながら、今があるわけです。

 

【3】地域の森と海とを結ぶ五十鈴川。その流域に発達してきたのが、内宮前の宇治の町。神宮の森によって五十鈴川の水源が守られ、地域にも潤いをもたらしています。

 遷宮行事で、宇治は川曳、外宮領は陸曳です。水路となる五十鈴川が今の道路の役割。次に五十鈴川の歴史について話していきます。

 宇治というと、普通はまず、京都「山城國」(やましろのくに)の宇治を思い描き、伊勢の地名として宇治を示す人はなかなかいません。宇治橋はなぜ宇治橋かといえば、「伊勢國」(いせのくに)の宇治にかかる橋だから宇治橋です。京都の場合は宇治川が流れていて宇治、伊勢は五十鈴川が流れていて宇治です。平安時代、宇治は清流が流れ、山が迫る貴人の別荘地でした。伊勢の宇治も今でこそ民家がありますが、山田からするとちょっと離れたところで、当時から京都の地形と似ていたと思います。

  神宮の宮域は、5500ヘクタールにおよび、伊勢市のおよそ4分の1を占めています。その広い森で育まれているのが、神宮で明日の宮柱となる檜、式年遷宮の御用材です。ただこれは大正12年以降の話です。広大な森に囲まれていながら、御用材として使われていたのは、鎌倉以前の話。その後は、宮川の上流など転々としながら江戸時代からは木曽の山の檜が御用材です。江戸時代、このあたりの風景はどうだったかというと、神宮の森に地域の人が焚火用の木を伐りに入れたため、何もない「はげ山」だったのです。

 明治以降、上知令(じょうちれい)が政府から出され、神社仏閣の土地は国のものなので国へ返しなさいということとなり、その後は植林したくてもなかなかできなかった。そして大正時代にようやく返還され、神宮森林200年計画を掲げて檜を植林し、御用材にしています。自分たちの場所の檜で、お宮を建てたいという思いがあったんですね。

 平成25年の式年遷宮では、伊勢の山で育てた檜が一部使われました。森が育ってきたおかげで、この森を水源とする五十鈴川にきれいな水が流れるようになったし、洪水も以前よりずっと減ったでしょう。森が健康になってくれば、流域もいろいろと潤ってくるのだと思います。

 宇治橋から下って烏帽子岩があります。あの岩は「よぼ」って言われています。宇治に住む方々に話を聞くと、烏帽子岩の中には穴が開いているので、よぼの上から飛び込んで、穴を潜り抜けるそうです。それができたら一人前。そういうのって「成人儀礼」っていわれるものです。昔は各地域のそういった儀礼を通りすぎると、大人だと認められるというのがあります。例えば、岐阜の郡上八幡では吉田川の新橋から川へ飛び込めると大人になったといわれるようです。よぼも子どもたちだけでルールが決められた、成人儀礼の場所だったのです。

 五十鈴川下流、楠部には神宮のお祭りでお供えするお米を育てる神田があります。今もお米は五十鈴川の水をひいてつくられています。   

 海へと下ると、二見に御塩浜があります。五十鈴川の真水と海水がまじりあったところで、その水を用いてお塩をつくっています。五十鈴川は伊勢湾へと流れ込み、そこで魚介類や海藻を育んでいます。

 神宮の森と海とを結ぶ役割が五十鈴川で、五十鈴川の流域に発達してきたのが、内宮前の宇治です。その中で、他の地域と比べて思うのは、神さまの恩恵を受けてきた土地であるということ。おかげ横丁の「おかげ」とは、神仏の助けであったり、ご加護であったり、人から受けた恩恵や力添え、また感謝の意を表します。挨拶の言葉として「おかげさま」というものがあります。今、環境問題が世間で話題になっていますが、この伊勢という場所は神宮の森が水源を守っているわけです。その守りがあるからこそ、この地域が恵まれているのではないでしょうか。

 

【質疑応答】

Q:自然の多い伊勢に生まれ、生活にこの喜びを活かしていくには?

A:私は俳句をして10年ほどです。俳句は空想では書けず、雨が降っていたり、虹が出ていたり、花が咲いていたり、実際に観察してみないと書けません。俳句は目の前のものをみて、心が動かされた時に、書けるもの。普段生活する中で、おかげ横丁で、そして自然の中で、私たちはいろいろと接しているはず。そういうものにきっちりと目を向けることで、もっと暮らしが豊かになり、それが働いている喜びにもつながっていくのではないかなと思います。観察する目を持つことで、改めてそういったことに気付けます。

 

Q:取材をしていて、ときめくような出会いはありますか?

A:取材しているとすべてが出会いです。人に出会うことだけじゃなく、自然と出会うこともあります。先日、月次祭の奉幣の儀の時に、宇治橋のところで、空を見ると、太陽が暈(かさ)をかぶる「ハロ現象」が起きていました。それは雨の兆しで、虹のように出ます。内宮の宇治橋の上でこれを見ると、もう最高のときめき。伊勢の、宇治の、宇治橋の上でハロ現象を見た。しかも令和初の月次祭、奉幣の儀が終わったその時に。伊勢で見たこういう自然の光景は、他所で見るよりもずっと強く印象に残るんじゃないかなって思います。

 

Q:宇治浦田が20年前と変わっていると思うことはありますか?

A:「おかげ横丁」ができたのがすごく大きなターニングポイントでした。伊勢の人と話すと、出来る前と後では宇治に対する感覚が変わったと聞きます。元々、「町」というのは山田だったんです。その後、おかげ横丁ができてから、すごく拓けました。そして参拝者の数が非常に増え、お店もできてきた。長い時間の感覚でいうと、戻ってきたなと感じます。昔、この宇治のあたりはずっと御師の館が建っていて、その時にはたくさんの参拝者をむかえてきました。それが今、平成から令和に向けて、江戸のにぎわいが戻ってきた感覚です。それはおかげ横丁をつくったときの狙い通りで、かつての伊勢のにぎわいが戻ってきたなって思います。

 


(C) Copyright 2000-2018 ISEFUKU. All rights reserved.
pocket line hatebu image gallery audio video category tag chat quote googleplus facebook instagram twitter rss search envelope heart star user close search-plus home clock update edit share-square chevron-left chevron-right leaf exclamation-triangle calendar comment thumb-tack link navicon aside angle-double-up angle-double-down angle-up angle-down star-half status